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寺院と神社 [古寺巡礼]

寺院と神社

神峯山寺を見て寺院と神社の違いに疑問を感じ、少し頭の整理をしてみました。

神峯山寺の勧請掛
160125_143416.jpg

さらに、神仏習合から神仏分離の流れをネット情報から検証しました。 
全てネット情報の繋ぎ合わせです。

  ・・・・・
  
神道は日本起源の宗教で、多くの神様を信仰します。
山・森・石・神木といった自然や、特定の人物も信仰します。
この世のあらゆるものに神が宿るとする考えから
「八百万(非常にたくさん、無限)の神々」という言葉もあるほどです。

一方の仏教は、
中国・インドといった外国から日本に伝わってきたとされる外来の宗教です。

6世紀に仏教が日本に伝来した後、
仏教と神道を同一のものとする考え方「神仏習合思想」が生まれました。
そのときから神仏が融合した世界が生まれ(神仏混淆)、
神社の隣に神宮寺を建てたりお寺に鎮守神を祀ったりすることが行われました。
このようなことは明治初期に「神仏判然の令」が出されるまで長きに渡り続きました。

仏教伝来後は、神さんよりも仏さんが偉い!という考えがあったのです。
ですから、お寺の中に神社が存在する事は普通の事でした。
多くの神社の管理は「お寺」が管理していたのです。
讃岐の金毘羅さんは、金光院松尾寺。
春日大社は、奈良興福寺。
名残として、安芸宮島の厳島神社には五重塔があります。

ところが、明治政府の天皇制では
「天皇は、天照大神の子孫で現人神である」という思想統制から、神社を優先した。

神仏分離令
その動きは早くは中世から見られるが、
一般には江戸時代中期後期以後の儒教や国学や復古神道に伴うものを指し、
狭義には明治新政府により出された神仏判然令(神仏分離令)。
神仏分離令や大教宣布は神道と仏教の分離が目的であり、仏教排斥を意図したものではなかったが、結果として廃仏毀釈運動(廃仏運動)と呼ばれた。

江戸時代、寺院は檀家制度によって、民衆の管理をする役割(寺請制度)、
言い換えれば行政の出先機関のような役割をになっていました。
そのため、仏教は大きな既得権益がもたらされ、堕落化してきます。
そのため、
民衆の仏教への反発は強く、神仏分離令と同時に、廃仏毀釈運動が起き、
徹底的に寺院や寺院の収蔵している経典や仏像などが破壊されたりすることになる。
そのため、
神社からは徹底的に仏教は廃されてしましました。
特に過激だったのが薩摩藩があった鹿児島県で、終戦を迎えるまで、仏教の空白地のような状態であったといわれています。

また、お寺には「土地の神」が存在します。
土地を守護する事を目的に「この土地の神」を祭っている。
この神は、天照系の神でなく、狸・狐・その他地神の神です。
明治時代でも、神仏分離令とは無関係に「土地神を祭る」事は暗黙の了解でした。

で、「地神の神社」は現在もお寺に残っているのでしょう。

   ・・・・・

なんとなく、
寺院と神社との関係、神仏習合と神仏分離との関係が整理できたように感じています。

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